散打練習に対する個人的な考え

中国伝統内家武術研究会代表より:

当会では練習のカリキュラムに散打を取り入れておりません。
ただし、お断りしておきますが、私は”散打否定論者”ではありません。

武術を学ぼうとされる方の大半の目的は、”いざという時、実際に使う”ことではないかと思います。
私自身もそれが目的で武術を始めた者の一人です。
中国へ初めて内家拳を学びに行ったのは忘れもしない、天安門事件が起こった直後でしたが、あれから20年以上の年月がたった今も尚、当時と変わらない目的でさらに上の境地を目指して練習しています。

”いざ”に備えて、普段から実際に打ちあう練習方法をすることは、武術を練習する人にとってごく自然な考えであると思います。

しかし、今まで日本で開催されてきた散打大会を見ると、必ずしも本人が学んできたはずの技術が発揮できていないように思います。

その原因は”技術の習熟度”にあると思います。

習い始めてほんの数年の者が散打大会に出場し、子供の喧嘩と変わりない戦いを演じた結果、他の格闘技から中国武術の実用性に対する疑問を抱かせる結果となったのは昨今のネットの書き込みを見ても分かる通りです。
習い始めてほんの数年の者が、いきなり自在に技を操ることは非常に困難なことでしょう。

形意拳譜(心意六合拳譜)に書かれている歌訣の一番最初にはこう書かれています。

「打法定要先上身」

意味は「先ず打ち方を体に覚え込ませなければならない」と個人的に解釈しています。

”孫氏の兵法”でもそうですが、一番大切なことは一番最初に書かれているものであると思います。

私の老師は常々言われておられました。

「功夫不到総是謎」

直訳すると、「功夫が至らなければ全てが謎である」
もっと分かりやすい言い方をすれば、「功夫が無ければ何の役にも立たない」となると思います。

トップページにも書きましたが、”功夫”とは”習熟度”を意味します。
同時に”功夫”とは”時間”という意味も持ち合わせています。

じっくりと時間をかけて反芻しながら習熟させた”功夫のある技術”でなければ、”いざ”と言う時に使うことはできないのは当然なことであると思います。
咄嗟の時に体が勝手に反応するほど骨の髄に染み込ませて、初めて使える技術になるのではないでしょうか。

また、指導者としての立場から、習いに来られている会員が怪我・事故に遭うようなことの無いように注意を払わなければなければなりません。

護身のために習い始めたのに、練習の段階で出血・骨折等、日常生活に支障のある怪我をしてしまい、甚だしくは身体に障害を負うようなことになってしまっては、護身術を習い始めた意味が無くなってしまいます。

しかし、中には経験してみたい会員もいらっしゃるでしょうし、その気持ちを頭ごなしに否定するのも指導者としてどうか?とも思い、散打の練習はやりたい者同士、あくまで自己責任でやれば良いと考えております。
実際に殴りあってみて初めて理解できることもあるのではないかとも思います。

もちろん異論を唱える方もいらっしゃるとは思いますが
これが現時点での私の考えです。

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